下記URL道川さんのブログ記事(18/4/30)を
転載させていただきました。感謝致します。
それはさておき 「聖書」
聖書には、どんなことが書いてあるのか?
「聖書をまったく知らない方へーー聖書のあらすじーー」
聖書は、人間を「神(宇宙万物の創造主)の創造当初の人間」にするための書物です。
最初の人、アダムとエバは、蛇の「神への邪推」の言葉にのって「禁断の木の実」を食べます。
その結果、
@創造主の御顔を避ける者となり、
A責任転嫁が習性になり、
B兄弟殺しをしても無関心な者になり、
C「1」の被害に対して「77倍」の復讐をする者となり、
D自らを神のごとくする「自己神格化」の虜になりました。
そこで神は、ノア一族と一つがいづつの動物以外を洪水で滅ぼします。
環境による大改造です。
しかし、このノアにも「作ったモノ(葡萄酒)に支配される」(アル中など好例)という悪や、 「他人の欠点を暴露する」という悪を見出します。
その上、「神のようになる」という「自己神格化」は極致に達し、天の頂きに届く「バベルの塔」 をつくりはじめたので、神によって言語を互いに通じないように乱されます。
神が次に取った手段が、イスラエルの祖・アブラハムの選びによる「人類のモデル」による改造でした。
アブラハムに与えられた神の「約束」(根源約束という)は、 「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。(@国土獲得の約束)
わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。(A民族繁栄の約束)
あなたは祝福の基となるであろう。(B万民福祉の約束) 」(創世記12:1ー3)でした。
いろいろテストを受けて、最後に「子孫繁栄」の唯一の可能性である「ひとり子イサクを捧げよ」という命令で、自己が選ばれたのはアブラハム一族のためではなく「万民福祉」にあることを知り、アブラハムは神の選びのテストに合格します。
アブラハムもそうですが、イスラエルは子々孫々にわたり 、全世界の民族を含む「神の国」(平和共存共栄)実現のために、「宇宙万物の創造主」である神に選ばれ、その目的に向かって教育されました。
モーセが受けた「十戒」もこれですが、その教育の具体的なものとしては特に砂漠放浪時代に与えられた「マナの分配」(出エジプト記16章)と「ヨベルの年の規定」(レビ記25章)があげられます。(下記参照) どちらも、他者のための個人の「権利放棄」を各人に要請するものでした。
「マナの分配」
出エジプトから「約束の地」カナンに至るまでの四十年間、イスラエルの人々は、天からのパンであるマナでやしなわれました(出エジプト16:35)。 しかしそれについては日々の分を日ごとに集めるという規定がついていました。
それは、朝に夕に、日毎に、出エジプトさせた主(神)を覚え、主が日毎の糧(食物)の与え主であることを各自に銘記させるためでした。 また「安息日」を主の日として聖別するため、六日目には二倍のパンを集めることが命じられていました。
さらに重要なのは、与えられるマナを多く集めた者も、すくなく集めた者もいったん全部を出させて、全体に公平に分配する、という方法がとられたことです(出エジプト16:13以下)。
これは人間各自の能力の差を認め、「働く時は能力に応じて働き、受ける時には必要に応じて受ける」という原則を各自に銘記させるためだったのです。 荒野を旅する日々の食糧配分という、きわめて素朴な叙述でありながら、実は、能力を異にする人間社会での「平和共存」のための不可欠の条件を示しています。
これはやがて、定住生活に入ると、50年目毎の「ヨベルの年」の規定として活用されています(レビ記25章)。
「ヨベルの年」
レビ記によれば、「ヨベルの年」は、イスラエルにおける50年目毎の「無条件の奴隷解放」と「無条件の土地返還」の「釈放」の年、すなわち「めぐみの年」でした。(ーー人と土地は神のものーー) これは、イスラエルによって実行されたか否かは別として、「万民共存共栄の基礎条件」として不可欠な、「貧富の差解消」の必然を銘記させるための規定でした。
この「ヨベルの年」=「めぐみの年」の祝福に与る者とは、いうまでもなく、富める者ではなく、貧しい者、すなわち「負債者」です。 自分の力では償うことのできない負債に悩んでいた者です。 すると負債は大きければ大きいほど、その「めぐみの年」に与る祝福は大きいということになります。
「マナの配分」も「ヨベルの年」も、これを命じられたのは、力の不平等な社会で、各人がその権利を主張したのでは、落伍者や犠牲者が絶対になくならないからです。
また選民イスラエルの「万民共存共栄」という使命からいっても、「神の選び」を「責任」として受けとらず、「特権」として受けとる限りは、その使命が果せないのです。
このように訓育されたイスラエルですが、ソロモンの神殿完成の時の祈りを最後に「万民福祉」の意識は、すっかり姿を消してしまいます。
ですから、多くの人々の罪のために、その贖いとして身をささげる「主の僕」(イザヤ書)の姿で、選民の「あるべき姿」が、権利放棄の形で示されています。
イスラエルの「あるがままの姿」とは、全く「万民福祉」に反したものでした。 異邦人の悔改めということよりも、自己満足に重点をおいた「ヨナの姿 」にで象徴されたものこそ、イスラエルの現実のあり方だったからです。
選民失格の原因は、選民の特権意識とその主張でした。
前述のイザヤほか多くの預言者の警告にもかかわらず、イスラエルは「選びの使命」を果たさず、ついに神から見捨てられ、大国バビロニアによって滅ぼされます。 西暦前587年または586年のことです。
それからほぼ500年、「神の国」の告知者としてのイエスの福音も、ユダヤ人の特権意識の粉砕に始まっています。 イエスの宣教の第一声は、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」という言葉でした(マルコ1:15)。
聖書は、神の支配の全き国が、人間の努力で到来するとは言っていません。 神がこれを与えるのです。 神の「選び」という無条件的な賜物を受け入れるのにふさわしい態度は、自らがマイナスであり、失格者であり、負債者であることを自覚することです。 それは一言で言えば「悔改め」、しぶとい特権意識を捨てる方向転換です(マタイ5:38以下、18:21以下、20章、マルコ10:35以下、ルカ3:8以下、ヨハネ8:31以下)。
選民は、この「神の国」実現の絶対条件である「特権放棄」をこばんで、その結果、この選民の特権意識の否定者であった「神の国」の告知者イエスを十字架につけて殺したのです。
イエス・キリストの十字架は、選民によって代表されたーー人間全体の中にひそむーー「特権意識」の罪が処理されない限り、「神の国」ひいては「真の平和の国」も、絶対に実現不可能であることを立証しているのです。
これがすべてではありません。
この十字架は、その罪なきひとり子・イエスによる人類の罪の贖いとして立つので、これを「わがため」として仰ぐ者すべてを生かす神の力です。 「イエスに負われて、他を負う」という道がひらかれたのです。
聖霊によって十字架の贖いを悟らされた教会が、「神の国」具現の原動力である十字架を証しする使命を委託されることになりました。
「この聖霊は、わたしたち(教会)が神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至る」からです(エペソ1:14、18)。
聖書全巻を貫く「焦点」は、「十字架のキリスト」です。 十字架のキリストがいっさいの事がらに対する究極的焦点であり、それは聖霊によって初めて、教会に開示された神の知恵なのです。
「神の国」は、人間の願望とか予測とは、まったく無関係に、神は突如として、この世界と歴史を終結させ、新しい世界を、永遠の祝福の世界としてもたらすのです。 「宇宙万物の再完成」です。
主よみあしのあとをついて行きます
私の毎日は主のみてにある
わたしをよばれたイエスさまを
どうしてこばむことができよう
主よみあしのあとをついて行きます
私の毎日は主のみてにある
めぐみとちからあふれる主は
かならずたすけみちびきたもう
主よみあしのあとをついて行きます
私の毎日は主のみてにある
主イエスはさきだって行かれる
おなじみちーをわたしもゆこう
"Follow I will follow Thee, My Lord" Lyrics & Music Howard & Margaret Brown, 1935
「主よ みあしのあとを」 こどもさんびか105番 Arranged by KS 18/12/20