「天なる神には みさかえあれ
地に住む人には 安きあれと」
み使いこぞりて ほむる歌は
静かにふけゆく 夜にひびけり
今なおみつかい つばさをのべ
疲れしこの世を おおい守り
かなしむ都に なやむ鄙(ひな)に
慰めあたうる 歌をうたう
重荷を負いつつ 世の旅路に
悩めるひとびと かしらをあげ
栄あるこの日を たたえうたう
たのしきうた声 ききていこえ
み使いのうたう やすききたり
ひさしく聖徒の 待ちしくにに
主イエスを平和の 君とあがめ
あまねく世の民 たかく歌わん
「天なる神には」讃美歌 114番
"It came upon the midnight clear"
Lyrics Edmund Hamilton Sears 1850
Music "Carol" Richard Storrs Willis 1850
Arranged by KS 05/12/18
それゆえ、主みずから、あなたがたに、
一つのしるしを与えられる。
見よ。処女がみごもっている。
そして男の子を産み、
その名を「インマヌエル」と名づける。
イザヤ書 7章 14節
以下月間デボーションガイド/クレイより転載
地主愛子さんは、神奈川県逗子市で私立の児童相談所を開き、子どもたちが幸福に生きるために労している。彼女はクリスチャンの亡き父を しのんで、NHKラジオで「父と子」と題して、恩を仇で返され大きな被害を与えられながら、その人を愛してやまなかった父の愛の深さを語った。
私が小字校3年生のときでした。高知刑務所を出てきたばかりの青年が、どこへ行っても雇ってもらえず、父(浜本)を頼ってまいりました。日頃は父に絶対服従の母が、そのときばかりは反対いたしました。すると、父はきびしい表情で母を見つめ、こう言いました。「この子を今、私がつきはなしたら、また必ず罪を犯すにちがいない。」とうとう母の反対を押し切って、その青年を雇ったわけです。父は青年を深く愛し、食事のときも私たちと一緒にテーブルをかこんで食事をしました。ところがです。その年の暮に、父が、その青年を集金に出しました。青年は夕方になっても、夜になっても帰って来ません。集金をしたお金は200円でした。大正時代初期の200円といえば、今にすれば、1000万円余りになりましょうか。母はすっかり顔色を失って、「早く讐察に届けてください。」と言いました。そのとき父は、「も し、今、私が届けたら、あの子は一生犯罪から足をあらえなくなる。朝まで待ってくれ。かならず帰って来るよ。」と答えました。朝になっても、とうとう青年は帰って釆ませんでした。泣いている母に父はやさしく声をかけました。「働けば200円の金は返ってくるよ。おりつさんよ(母の名は律子)、そう悲観しなさんな。私の悲しいのは、私の愛がたりなかったことだ。あの子に、また罪を犯させた私の愛のたりなさが申し訳ないのだ。その私の心がわからないおりつさんではだめですよ。」と言ってアハハハ、ハハハと笑ったんです。大きな目に涙をためて、アハハハと笑い飛ばした父の悲しみが、小学校3年生の私のたましいをゆさぶりました。
ハーベスト・タイム・ミニストリー"Clay" 2001年3月号 P67より
クリスマスは創造主である神様が創造主を知らず、罪の結果、さまざまな不幸や悲しみの中にあり、苦しむ人を憐れみ、そこから救うため、ご自身の愛を示され、人となりこの世界に来てくださったことを覚えて、創造主である神様とそのご愛を讃える日です。
神様が人となり来られました背景にはいつも本当に驚きます。神様はその日を、それまでの歴史上、最強であったローマ帝国の全盛期(最も安定した時代、BC27から約200年間)をわざわざ選ばれました。しかしご自身は同じ時代にそのローマの属国であったユダヤという小さな国のさらに最も小さな町の馬小屋という誰が見ても最低の状況を選ばれました。(ただしユダヤは地理上、正に全大陸の中心に位置していたのですが) そして神様の一人子イエス様は、武力もなにも使わずにそのローマ帝国を支配されました。(クリスチャンが増え続けついに公認され、国教とされた) やがて威厳を誇っていたローマ帝国は分裂し忘れ去られました。しかし馬小屋でお生まれになられたイエス様を讃える賛美、その福音はその後、益々力を得て実に2000年間、決して絶えることはなく、イエス様が語られた通り、全世界に宣べ伝えられました。神様は今も世界を支配し歴史を導いておられます。この福音によって神様の計り知れないご愛を知ることができました。また讃美歌にありますように神様は「低きものを高めたもう」こと、小さき者を決して軽んじることがないことも、自ら歴史を通して示されました。神様のご愛と知恵とはなんと深いことでしょうか!これに比べ得るものなどありません。神様のご愛の深さと壮大なご計画に、ただただ感嘆するばかりです。
ある時、イエス様はご自分は罪人(つみびと)を招くために来たのだと語られました。 イエス様の周りにはいつも社会の落伍者とレッテルを貼られた人達、抑圧された人々、また取るに足らない人達が集まりました。イエス様がお生まれになられた際も、この重大なニュースを知らされたのは、当時の社会では落伍者だった羊飼いたちだけでした。神様はすべての人に希望を与えてくださいます。神様はどのような人でも救いを与えて下さいます。こんな自分でも・・・?と思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし大丈夫です。イエス様は罪人を捜して、救いを与えるために、罪人を招くために来られたのです。神様の前で、ごめんなさいと心から悔い改めて下さい。その時、イエス様の打たれた傷、十字架で流された血潮が、どのような罪をも赦して清めて下さいます。そしてすべてを新しくして下さいます。
どなたでもこの神様の素晴しい救いを受けることができます。神様はそのことを明確に示しておられます。そして今、この時にもイエス様はあなたのことを待っておられます。これは宗教ではありません。わたしは宗教には興味も関心もありません。すべて現実の世界での出来事です。聖書を通してご自身を啓示された神様は今も活きておられます。そしてそのことはどなたにでも体験し、実際に知ることができるのです。神様は上記の話の父親と同じように、それまでの愛が足りなかったと言って悲しみ、一人子であるイエス様を罪深い地上に遣わされたのです。神様が人となって来て下さったのです。罪人を捜すために来て下さったのです。イエス様は罪深い人の罪を責めることは決してされませんでした。ただ罪の中にありその結果、苦しむ人の姿に涙を流されたとあります。そしてご自分の命をわたしたちのために投げ捨ててくださいました。イエス様が経験されたことは、映画「パッション」で克明に描かれていますので、ご存知の方も多いと思います。神様はわたしたちをいったいどれほど愛しておられることでしょうか・・・
これを読んで下さった方、どうぞ今、この神様のご愛に応えて、イエス様を心にお迎え下さい。
いつも賛美歌を聴いてくださり感謝しています。皆様が幸いなクリスマスと新年を迎えられますようにとお祈りしています。05/12/20 KS