アブラハムは、いろいろテストを受けて、最後に「子孫繁栄」の唯一の可能性である
「ひとり子イサクを捧げよ」という命令で、自己が選ばれたのはアブラハム一族のため
ではなく「万民福祉」にあることを知り、アブラハムは神の選びのテストに合格します。
アブラハムもそうですが、イスラエルは子々孫々にわたり 、全世界の民族を含む
「神の国」(平和共存共栄)実現のために、「宇宙万物の創造主」である神に選ばれ、
その目的に向かって教育されました。
モーセが受けた「十戒」もこれですが、その教育の具体的なものとしては特に
砂漠放浪時代に与えられた「マナの分配」(出エジプト記16章)と
「ヨベルの年の規定」(レ ビ記25章)があげられます。
(下記参照)
どちらも、他者のための個人の「権利放棄」を各人に要請するものでした。
「マナの分配」
出エジプトから「約束の地」カナンに至るまでの四十年間、イスラエルの人々は、
天からのパンであるマナでやしなわれました(出エジプト16:35)。
しかしそれについては日々の分を日ごとに集めるという規定がついていました。
それは、朝に夕に、日毎に、出エジプトさせた主(神)を覚え、
主が日毎の糧(食物)の与え主であることを各自に銘記させるためでした。
また「安息日」を主の日として聖別するため、六日目には二倍のパンを集める
ことが命じられていました。
さらに重要なのは、与えられるマナを多く集めた者も、すくなく集めた者もいったん
全部を出させて、全体に「公平に分配」する、という方法がとられたことです
(出エジ プト16:13以下)。
これは人間各自の能力の差を認め、「働く時は能力に応じて働き、受ける時には、
必要に応じて受ける」という原則を各自に銘記させるためだったのです。
荒野を旅する日々の食糧配分という、きわめて素朴な叙述でありながら、
実は、能力を異にする人間社会での「平和共存」のための不可欠の条件を示しています。
これはやがて、定住生活に入ると、50年目毎の「ヨベルの年」の規定として
活用されています(レビ記25章)。
「ヨベルの年」
レビ記によれば、「ヨベルの年」は、イスラエルにおける50年目毎の「無条件の奴隷解放」
と「無条件の土地返還」の「釈放」の年、すなわち「めぐみの年」でした。
(ー ー人と土地は神のものーー)
これは、イスラエルによって実行されたか否かは別として、「万民共存共栄の基礎条件」
として不可欠な、「貧富の差解消」の必然を銘記させるための規定でした。
この「ヨベルの年」=「めぐみの年」の祝福に与る者とは、いうまでもなく、富める者ではなく、
貧しい者、すなわち「負債者」です。
自分の力では償うことのできない負債に悩んでいた者です。
すると負債は大きければ大きいほど、その「めぐみの年」に与る祝福は大きいということに
なります。
「マナの配分」も「ヨベルの年」も、これを命じられたのは、力の不平等な社会で、
各人がその権利を主張したのでは、落伍者や犠牲者が絶対になくならないからです。
また選民イスラエルの「万民共存共栄」という使命からいっても、「神の選び」を「責任」
として受けとらず、「特権」として受けとる限りは、その使命が果せないのです 。
このように訓育されたイスラエルですが、ソロモンの神殿完成の時の祈りを最後に
「万民福祉」の意識は、すっかり姿を消してしまいます。
ですから、預言書では、多くの人々の罪のために、その贖いとして身をささげる「主の僕」
(イザヤ書)の姿で、選民の「あるべき姿」が、権利放棄の形で示されています 。
イスラエルの「あるがままの姿」とは、全く「万民福祉」に反したものでした。
異邦人の悔改めということよりも、自己満足に重点をおいた(旧約聖書の一書である
「ヨナの書」 )に象徴されたものこそ、イスラエルの現実のあり方だったからです。
選民失格の原因は、選民の特権意識とその主張でした。
前述のイザヤほか多くの預言者の警告にもかかわらず、イスラエルは「選びの使命」を
果たさず、ついに神から見捨てられ、大国バビロニアによって滅ぼされます。
西暦前587年または586年のことです。
それからほぼ500年、神は、人間をそのママ放置することが出来ず、自ら大工の子
として、馬小屋で産まれるという姿(人として)で地上に来られました。
名は、「イエス」と付けられます。
イエスが、およそ30歳になって、「神の国」の告知者として立ち上がりますが、
そのイエスの福音も、ユダヤ人の特権意識の粉砕に始まっています。
イエスの宣教の第一声は、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を
信ぜよ」という言葉でした(マルコ1:15)。
聖書は、神の支配する「神の国」(天国)が、人間の努力で到来するとは言っていません。
神がこれを与えるのです。
神の「選び」という無条件的な賜物を受け入れるのにふさわしい態度は、自らが
マイナスであり、失格者であり、負債者であることを自覚することです。
それは一言で言えば「悔改め」、しぶとい特権意識を捨てる方向転換です
(マタイ5:38以下、18:21以下、20章、マルコ10:35以下、ルカ3:8以下、
ヨハネ8:31以下)。
選民イスラエルは、この「神の国」実現の絶対条件である「特権放棄」をこばんで、
その結果、この選民の特権意識の否定者であった「神の国」の告知者イエスを
十字架に つけて殺したのです。
そのイエスが「復活」したことによって、選民イスラエルの真の自殺となりました。
同時に、この「復活」は、冒頭書いた神の「根源約束」(平和共存共栄)への、
神の「確 約」となります。
イエスが「復活」し、「昇天」したのちに、生前、約束されていた「聖霊」によって
教会が創設されて、選民イスラエルに代わって「人類のモデル」になります。
イエス・キリストの十字架は、選民によって代表されたーー人間全体の中にひそむーー
「特権意識」の罪が処理されない限り、「神の国」ひいては「真の平和の国」も、
絶 対に実現不可能であることを立証しているのです。
これがすべてではありません。
この十字架は、その罪なきひとり子・イエスによる人類の罪の贖いとして立つので、
これを「わがため」として仰ぐ者すべてを生かす神の力です。
「イエスに負われて、他(隣人)を負う」という道がひらかれたのです。
聖霊によって十字架の贖いを悟らされた教会が、「神の国」具現の原動力である
十字架を証しする使命を委託されることになりました。
「この聖霊は、わたしたち(教会)が神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける
者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至る」からです(エペソ1:14、 18)。
聖書全巻を貫く「焦点」は、「十字架のキリスト」です。
十字架のキリストがいっさいの事がらに対する究極的焦点であり、それは聖霊によって
初めて、教会に開示された神の知恵なのです。
「神の国」は、人間の願望とか予測とは、まったく無関係に、神は突如として、
この世界と歴史を終結させ、新しい世界を、永遠の祝福の世界としてもたらすのです。
「宇宙万物の再完成」です。
その時、「最後の審判」が行われますが、その基準は、次の通りです。
【最後の審判の基準】
「人の子(イエス)が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、
彼はその栄光の座につくであろう。
そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、
彼らをより分け、 羊を右に、やぎを左におくであろう。
そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父(父なる神)に
祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている
御国(「天国」)を受 けつぎなさい。
あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、
旅人であったときに宿を貸し、 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、
獄にいたときに 尋ねてくれたからである』。
そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、
『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、
かわいているのを見て飲ませましたか。
いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
すると、王は答えて言うであろう、
『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者の
ひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
それから、左にいる人々にも言うであろう、
『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために
用意されている永遠の火にはいってしまえ。
あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、
旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、
獄にいた ときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。
そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、
『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、
病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。
そのとき、彼は答えて言うであろう、
『あなたがたによく言っておく。
これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、
わたしにしなかったのである』。
そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に
入るであろう。」(マタイ25:31-46)
主よみあしのあとをついて行きます
私の毎日は主のみてにある
わたしをよばれたイエスさまを
どうしてこばむことができよう |
主よみあしのあとをついて行きます
私の毎日は主のみてにある
めぐみとちからあふれる主は
かならずたすけみちびきたもう |
主よみあしのあとをついて行きます
私の毎日は主のみてにある
主イエスはさきだって行かれる
おなじみちーをわたしもゆこう |
"Follow I will follow Thee, My Lord" Lyrics & Music Howard & Margaret Brown, 1935
「主よ みあしのあとを」 こどもさんびか105番 Arranged by KS 18/12/20
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