この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った。
すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、
これらのことを見ていた。 ルカによる福音書 23章 48-49節
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私は牧師の両親のもとに生まれ、教会で育ちましたが、
私のためにイエス様が十字架にかかって死なれたということを実感として知ることができずにいました。
それは自分が自由の身でなんでもできると思い、イエス様の十字架は必要ないと高ぶっていたからでした。
しかし実際に罪の奴隷である自分の惨めさ、不自由さを知らされ、絶望のふちに立った時、はじめて
「あなたの、その罪の身代わりとなって十字架で死ぬために私は生まれたのだよ。嘆くことはない」
と、神様は私に語ってくださいました。
それは、イエス様の尊さを無視し、裏切って、自分勝手に生きてきた私にあてて言われたには、
あまりにも不条理で優しい声でした。
涙が止まりませんでした。その愛の大きさのゆえに、私はこの方が神であると確信することができました。
その時の感情は喜びではなく、悲しみではなく、しかしあふれるばかりの喜びと悲しみであり、
ふるえるという表現がいちばん近かった気がします。
十字架のイエス様の前にはじめて立つ時、私たちはその愛の偉大さと自分の罪の恐ろしさに
ただふるえる事しか出来ないのではないでしょうか。東京都 深谷
東京都の深谷さんからのリクエストとお話でした。ありがとうございました。
6番の歌詞は聖歌にはありませんが、深谷さんからお知らせいただきました。
「きみもそこにいたのか」 聖歌 400番(新聖歌113番)